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2024.01.26UP

幸福を広めたい

大久保 貴広

大久保 貴広

コンサルティング事業部 WEBマーケティングチーム
経営コンサルタント

Blog | Takahiro ookubo

幸福を広めたい

こんにちは。

役に立たないブログ記事を書きがちな大久保です。

 

今回は、幸福について。

 

早速”彼”に聞いてみます。

 

大久保

人間にとって幸福って、どんな状態ですか?

 

ChatGPT
人間にとっての幸福は、個人によって異なるものであり、多様な要素から成り立っています。一般的には、以下のような状態が幸福として認識されることが多いです。

・心の平穏: ストレスや不安が少なく、心が落ち着いている状態。
・健康: 身体的、精神的な健康が保たれていること。
・満足感: 人生や現在の状況に対して満足している感覚。
・愛と所属感: 家族や友人との強い絆や、コミュニティへの所属感。
・目的と達成感: 自分の人生に意味や目的を見出し、達成感を得ること。
・自己実現: 自分の可能性を最大限に発揮し、自分らしさを表現すること。
これらはあくまで一般的な要素であり、個々の価値観や生活環境、文化的背景によって幸福の定義は大きく変わることがあります。また、幸福は一時的な感情ではなく、長期的な状態や生活の質と関連していると考えられています。

 

なるほど、つまらないですね。

 

私は、過去に笑いや怒りについてブログ記事を書きましたが、

昔から幸福についてもすごく考えがちな人間でした。

 

▼過去の記事です。

「笑い」の正体

「怒り」の正体

 

実は私は、幸福という状態を以下のように決め、その後あまり考えていません。

 

 幸福である = 幸福について考えない

 

です。

 

逆説的な定義の仕方ですが、

結構自分が助かっている答えです。

良いものは拡散したいです。

 

※今更ですが、今回の記事も、笑いの正体も、怒りの正体も、

私個人の独断と偏見で、誰かの言葉じゃありません。

(知らないところで、誰かが言っているかもしれませんが、、)

 

 

全然話が変わるようですが、

 

 (1)メガネをかけている → メガネを探さない

 

ということは基本的に成り立ちますよね。

 

ただし、メガネの場合、

 

 (2)メガネを探さない → メガネをかけている

 

は成り立ちません。

 

メガネをかける必要がないか、

メガネを持っていないという諦めがある、

もしくはその両方かも知れませんね。

 

逆に言うと、メガネをかけていないのに

メガネを探さない場合は、

上記の他にないと考えています。

 

ただ、もし、(1)と(2)が成り立てば、

 

 メガネをかけている = メガネを探さない

 

と言えたとします。

 

 

幸福に置き換えるとどうでしょうか?

 

 (1)幸福を持っている → 幸福を探さない

 

強引にも言い方を変えると、

 

 (1)’幸福である → 幸福について考えない

 

が成り立つと、私は考えました。

 

 

次に、

 (2)’幸福について考えない → 幸福である

※「不幸」について考える際も必ず「幸福」について考えるとする

 

ここがもう一つのポイントで、

メガネをかけていないのにメガネを探さない場合は、

次の2パターン、もしくはそれら両方しかないと言いました。

 

メガネをかけていないのにメガネを探さない理由

(A)メガネをかける必要がない

(B)メガネを持っていないという諦めがある

 

 

幸福であれば、

幸福でないのに「考えない」ということは、

「(A’)幸福になる必要がない」かもしれないし、

「(B’)幸福はない、という諦めがある」かもしれないですね。

 

この、(A’)も(B’)も、

「幸福」であると捉えると、

幸福でない場合(A’)も(B’)も成り立たたないため、

(2)’は成り立つ

 

というのが私の意見です。

 

そうすると、

(1)も(2)も成り立ち、

 

 幸福である = 幸福について考えない

 

を自分なりの答えとしました。

 

 

詳しく言うと、

以下はイーロン・マスクの発言から学んだのですが、

「幸福=現実ー期待」

という等式が根底にあります。

 

「(A’)幸福になる必要がない」

「(B’)幸福はない、という諦めがある」

 

どちらも、

自分の今以上の幸福に「期待」をしていません。

期待が0だから、少なくとも幸福確定です。

 

例えば誰かに急に殴られた時、

皆さんもまず幸福じゃない!などと思わなず、

怒ったり、痛がったりしていますよね。

 

私は怒ったり痛がったりしている時を幸福でないとは考えられません。

とくに、思い返せば、そんなこともあったな、と思います。

 

幸福について考えていないうちは、幸福と考えます。

 

怪我して「幸福(or自分の不幸)について考え始める」と、

期待に裏切られた現実から、

幸福でない状態が始まるということです。

 

例)こんな目にあった自分は不幸だ、、

 

この定義をしてから、幸福について考えることはほぼなくなりました。

 

少なくとも、

幸福になりたくて幸福を探すようなことはなくなります。

 

幸福について考えないだけで幸福だなんてお得です。

 

 

 

最後になりますが、

私は今すごく幸せな気持ちでブログ記事を書きながら、

幸福についての原稿を考えました。

 

 (1)’幸福である → 幸福について考えない

 

に例外が見つかったっぽいので、

自信が一気になくなりました!

 

(心の声)

「考えろ」と命令された場合は当然、例外になるので、

私個人としては、考えろと言われても、微弱にも幸福から離れるという考えなのですが、

この記事にしようと思った瞬間は幸福でなかったのであれば、

過去の自分に考えろと命令されたと考えると、

ギリギリ破綻ではない?

 

一旦忘れてください!笑

大久保 貴広

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